日嶽

  1.火(肥)国から肥後国への変遷 
  肥前風土記の冒頭に、火国の国名の由来について、異なった二話が載せられている。第一話が日本書紀景行天皇)と同様な、海上に現れた怪火現象(不知火)によものに対し、第二話では陸上での怪火現象が国名の由来となっている。ところで、肥後の豪族である火君の説明に、肥前風土記の記事を引用するのは、肥後風土記が既に紛失し存在せず、そのため、かつて火国を構成していた肥前国風土記からの引用となっているのである。

 そこで、第二話の陸上に現れた怪火について、肥前で記された肥前風土記を見ると、『肥前国(佐賀・長崎県)と肥後国熊本県)は、元は一つの国であった。崇神天皇の治世に、肥後国益城郡の朝来名の峯(雁回山)にいた二人の土蜘蛛を、肥君らの祖先である健緒組(たけおぐみ)が征伐した。ついでに国内を巡視中、八代郡白髪山(小川町日嶽)で野営すると、その夜、大空に火の塊があり山に届いて燃えた。健緒組は驚き大王に申すと、「火の下りし国なれば火国というべし」といわれ、火君健緒組の姓名を与え、国を治めさせた。それで火国の名称が起こったのである。』
 この記事から崇神天皇の時代に、怪火により『火』文字を用いた『火国』の国名が始まり、また肥前国肥後国は、もと一つの国であったとも記されている事から、風土記が記された八世紀には、既に肥前国(佐賀・長崎県)と肥後国熊本県)の二カ国に分国していた事が分かる。

 その時期も律令制度の確立にしたがい、遅くとも七世紀末までには二カ国に別れ、肥後国が成立したと考えられる。また分国する以前は『肥国』と呼ばれる一つの国であり、国名の表記もそれまでの『火国』から『肥国』に変化したと考えられる。なお『肥後国』も正しくは『ひのみちのしりのくに』と読み、日嶽も元は火岳であったと思われる。

 ところで、この肥国が二カ国に分割したことについて、幕末の国学者である本居宣長は、『肥前と肥後とは間に筑後を挟み、両国間は直接陸続きではなく、従って肥後一国が二つに分かれたというのは、国の形からいって問題がある。考えるに健緒組の故事は、地名により皆肥後国の地であり、従って肥国というのは初めは肥後の方のみで、肥前の地はもと筑紫国の内であったが、後に肥後に属するようになったのであろう。』と「古事記伝」のなかで述べている。 

2.火(肥)国の旧国名とその範囲 

 そして古事記によると、この時期九州本島には四つ国(面)があり、そのなかで肥国の旧国名は『建日向日豊久士比泥別』(たけひむかひとよくしひねわけ)と他の国名に比べ長く、旧国名で呼ばれた時期も五世紀代と考えられる。この時期、新たな動きとして西都原台地上に、男狭穂塚・女狭穂塚の巨大古墳が出現し、新たに日向国が建国されるのである。

 これに関して、 景行大王熊襲征伐の記事に『 天皇は、そこで、その不孝の甚だしいことを憎んで、市乾鹿文を誅殺し、そうして妹の市鹿文を火国造にされた。』この一文から、それまで熊襲の国と呼ばれていた日向と、後の大隅や薩摩を含む広大な地域から日向の北半分を割き、それに肥後の南半分を併せたのが、肥(火)国の範囲であったのではなかろうか。そのため肥後の旧国名に「日向」の文字が含まれているのはそのためであろう。

 また旧国名の『建日向日豊久士比泥別』についても、これまでに先達の方々が色々な説を発表されており、そのなかで「久士比泥」は記紀の「久志布流峯」(くしふるたけ)と同義で「奇火嶺」(くしひね)であろう。当時人々は火を信仰の対象としており、奇火は霊火、聖火、怪火と同じものであるから、九州中央部で噴火を続ける阿蘇火山を指している。との説に説得力があるように思う。

 列島に日神(ひのかみ)信仰が渡来する以前、人々は神々が住む山を祭祀し、阿蘇山の噴火を見て恐れ敬い、自然の怪火を信仰の対象まで発展させ、それが国名に選ばれた所以であろう。

 そこで肥前風土記に記された、肥君らの祖先である健緒組とは一体なに者であろうか。火国造の祖であり、熊本市最古の神社である健軍神社における元々の祭神とされる。ところが健軍神社の社地内には、阿蘇神社と同じ多くの阿蘇神が祀られ、さながら阿蘇神社そのものの様である。

 また健緒組について、藤芳義男氏によると、健緒組の健とは熊襲国を、緒組は大王(おおきみ)をあらわすと考えれば、健緒組とは熊襲国の大王ということになり、火国の成立に南九州との関係を示唆するものである。

 なお健緒組が滅ぼした、土蜘蛛の住んでいたとされる『雁回山(がんかいざん)』(掲載写真)の中で、手前の陣内(じんない)廃寺跡と呼ばれる礎石群は、白鳳時代(西暦700年前後)に建立され、奈良時代に焼失するまで約100年間、その威厳を保っていたと考えられている。

 この寺院についての文献資料が全く発見されておらず、創建当時の寺院名は不明であり陣内廃寺は仮称である。しかし発掘調査の結果、規模は160m四方で、法起寺式の伽藍を持つ事が推測され、現在は写真のような塔心礎が遺されている(案内板より)。なお、この位置から眺める雁回山が最も美しく見える。 

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            雁回山           健軍神社楼門

3.熊本県内に阿蘇神社が多い訳

 話は変わるが、日本書紀(景行紀)の熊襲征伐における一連の巡幸経路において、違和感を感じる移動順路がある。それは菅生台地の禰宜野で3人の土蜘蛛を滅ぼした後、西に進めば直ぐ阿蘇一宮である。距離的にも近いにも係わらず何故か阿蘇へ行かず、南九州へ移動しているのである。

 そのため阿蘇に巡幸するのは、熊襲国を出発した後の有明海に出てきて北上し、玉名の次の巡幸地である。従って、地図のなかった当時、阿蘇は大和から遠く離れた場所に位置すると考えられるように、何らかの否定されるべき意図があって阿蘇を巡幸経路の後半に持ってきたのである。

 それは、阿蘇神の阿蘇津彦や阿蘇津媛は元々、かつて大集落を形成していた菅生台地を本願の地とする一族であり、阿蘇カルデラに移動する以前、菅生台地の禰宜野で大和王権と戦いを繰り広げる程、激しく対立したのである。そのため素直に阿蘇への巡幸とはならなかったのであろう。

 このようなルーツを持つ阿蘇氏は、カルデラという盆地にも係わらず、外に目を向けた開明的な人々であった。そのため阿蘇神社は全国に500社の分社を持つと言われるが、特に熊本県内に多くなかでも代表的な神社の健軍神には、元々の祭神とされる健緒組の他に、多くの阿蘇神が祀られている。

 健軍神社で祀られている十五柱の内の十二柱が、健磐龍命(一宮)を主祭神とする阿蘇神社祭神である。このことは他の神社についても言えることで、阿蘇神社は神社と言っても、神官兼武士団の集合体であり、時の中央政権と結びつき領主的支配により統治していた。その結果、鎌倉時代までには健軍神社郡浦神社(三角町)あるいは甲佐神社甲佐町)を末社とし、その社領支配下に組み込んだ。

 このように勢力伸張に伴い、その勢力下においたり影響力を行使できる地域の神社に対し、それまでの祭神に新たに阿蘇十二柱の内の何柱かを加えた結果、熊本県内には、神社名の後ろに○○阿蘇神社と呼ばれる神社が多いのである。そのため神社本来の姿を知るには、阿蘇系の祭神を差し引かなければならない。

 この事は健軍神社についても然りで、健磐龍神を始め阿蘇十二神の内、七神を祭神として祀られている。境内には多くの境内社が立ち並び、案内板にも阿蘇神社との関係がその多くが占めるなど大社となった健軍神社も、阿蘇神を除くと元は健軍宮(たけみやぐう)と呼ばれ、健緒組を祭神とする健軍荘(熊本市東部一帯の広範囲な地域)における産土神社であった事が分かる。

 平安時代中期に編纂された延喜式によると、時の政府から神社の修理費などが支給される式内社として、肥後国では、阿蘇神社(健磐龍命)、阿蘇山上神社阿蘇比咩)、国造神社(国造)それに玉名の疋野神社(日置氏の守護神)の四座が記ている。

 

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       阿蘇神社本殿          健軍神社本殿

4.日本書紀風土記の怪火による着船地の違い
 次に、火国の国名の由来である、もう一方の『海上に現れた怪火現象により、無事陸に着船することができた』という、日本書紀や書紀を踏襲した風土記の記事について観ると、この時着船した場所が書紀と風土記では異なり、日本書紀の豊邑(豊村)に対し風土記では肥邑(肥村)と記されている。
 豊邑とは現在の松橋町豊福の西下郷島江口とされるが、中世以来の不知火海干拓により内陸化し、浅川に架かる橋(江口橋)にその名を留めるに過ぎない。そのため当時ここが海岸線であったことを想像するのは難しく、この辺りが有明海八代海は結ぶ海峡の入り口であった。

 そして、この一帯は保存状態のよい女性首長の遺骸が出土した、向野田古墳(四世紀末)を始め、四世紀から五世紀半ばにかけての、火君のものとされる歴代の前方後円墳が集中的に多数遺されている。
 なお当時の豊邑は、海峡の入り口であった江口から、向野田古墳が遺されている宇土市山辺りまでの広範囲な地域であった。この事から日本書紀における豊邑の記述は、火君歴代の墓域が豊邑一帯にあった時期の情報を元に記述されたもので、日本書紀が編纂された八世紀始めにおいても、中央政府では火君歴代の墓域について、不知火と共によく知られていた事がうかがえる。
 これに対し肥後国で記され、より詳しく状況を知り得た風土記では、着船した場所が肥邑と記され、現在の八代郡氷川町(八代郡肥伊郷)である。大和朝廷の勢力が南九州まで伸びて来ていた五、六世紀頃、氷川流域が大和朝廷の勢力の根拠地であったのではなかろうか。

 また国や郡そして郷の名はすべて漢字二字で書くように、との「好字二字令」が出されたため、肥を肥伊としたものであるが、肥伊郷の肥伊は、紀伊や斐伊と同じく元は「ヒの村」と言っていたが、後に長くのばして肥伊としたものである。従って肥伊郷をもと肥邑と言ったのも肯ける。
 そして氷川の右岸台地に、六世紀初頭から中頃にかけての肥君のものとされる、当時としては九州最大級の大型の野津古墳群が展開し、筑紫君磐井の没落後、大和王権と直接繋がりを持ち大王家の石棺を近畿まで運ぶなど、海上交易により大きな力を持った肥君の勢力の大きさがうかがえる。           

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     江口橋(松橋町豊福)      肥邑(氷川町宮原)             地名の位置関係

5.『火国』と『肥国』どちらが先か
 このように火(肥)国の国名は、火国から肥国に変化したと考えられてきたが、逆に肥国が先で後に火国へと国名が変化したとする説がある。
 それは、金思燁氏による著書の『トンカラ・リンと狗奴国の謎』のなかで、肥国の国名について、火国から肥国ではなく肥国の使用が火国より先で、肥国から火国に変遷した事を、万葉集の『肥』を『こま』と読むことを例にとり、日本語と朝鮮語を比較するなど詳しく論証されている。
  彼の考えを要約すると、『日本語も朝鮮語も、ともに「肥」の名詞形は「コム・コマ」となって一致する。古代において「熊本」を「肥の国」と書き、「コマノクニ」と訓んでいた。それが後になって、「肥」を訓で「コマ」と訓むのを忘れてしまって、「肥〓火」であるから、「肥」を「ヒ」と音で読みながら、「肥」を「火」の字に書きかえたのである。したがって、古くは「火の国」であったというのは間違いで、「古くは肥(コマ)の国であったのが、後に火の国と呼ぶようになった」のが正しい。「熊本」は「火の国」ではなく、文字どおり「熊(こま)国の本」なのである。』
   この説を流れ図で示すと、
  『肥(コマ)の国』→ 『火の国』→ 『肥前・肥後の国』
火国が分国するなら火前と火後となり違和感を感じる。そこで並べ変えるとると
 『火の国』→ 『肥(コマ)の国』→ 『肥前・肥後の国』
やはり、これが正しい国名の変遷のように思うが、金思燁氏ほどの学識のある方が、『肥(コマ)』が先だと言われている以上、傾聴すべきであろう。

6.肥(こま)の意味するもの
 それでは、『肥』をコマと読む万葉集の歌をみてみよう。万葉集、巻第11・2496
「肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結へる 染木綿(しめゆふ)の 染(し)みにし心  我れ忘れめや」
 『球磨人(くまひと)が 草木染めの麻で髪を結っていた姿が 心に染みついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない。』
 問題はこの、肥人(こまひと)をどう読むかである。肥国はヒノクニでありコマノクニとは読まず、この歌の解説に、『肥人(こまひと)とは肥後国(今の熊本県)球磨(くま)地方に住んでいたといわれる人』と説明されている。
 この歌は律令時代に、球磨地方に赴任した役人が、任期終了に伴い現地妻と別れる際に歌ったものであろう。そして、彼女が生まれ育ったであろう「こま」(馬または球磨)と呼ばれ、馬を育てることで有名であった地域を、肥国に属することから「肥」の文字を当て「こま」読ませたと考えられる。
 従って、「肥」の読み方の「こま」とは、馬を意味しているのであって、国名とは別物であり、同じ地域を漢字と読み方(音)で表現しているのである。即ち、狭い地域のコマと、その地が属する肥後国を、文字と音を使って表現しているのである。また、この歌は律令時代に詠まれたものであり、柿本人麻呂の選とある事からも、彼が活躍した八世紀初めから、そう遠く遡った時期の歌ではなく、金思燁氏の言うような、肥をコマと読む事を忘れるほど古い時代の話でもない。
 そして、肥をコマ(馬)と読ませた事を示すように、あさぎり町の才園古墳からは、列島内でも有数の出土量を誇る馬具が出土し、また大村横穴古墳群には馬が壁画として彫り込まれ、一番下の親子の馬については作者の暖かい目差しを感じ取ることができる。このように球磨盆地では多くの馬が飼育され、その中でも、肥人と歌われた女性は馬を特に身近に感じる所にいたのかもしれない。
  このことは漢字に精通した、平安時代万葉集の解説書にも、「なぜか解らぬが、肥をコマと読む」あり、球磨地方で多くの馬が飼育されていた事が忘れ去られたのであって、単に読み方の問題ではない。

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      馬具(才園古墳出土)    馬の壁画大村横穴古墳群

7.火(肥)国に対する地元での考察
  宮之原町郷土誌(続々編)より

 私たちの郷土は、火の国の名前の発祥地として、また古墳文化の栄えた所として、誇らしい歴史の曙を持つが『熊本の歴史』にも、まず宮原が取り上げられている。学者は私たちの郷土をどう見ているか。

 今の八代平野、特に氷川流域一帯には千五百年前のものと思われる大きな墓が多いし、また墓全体の数も極めて多い。同じ広さの中にある墓の数を比べれば、肥後で一番多いと言えよう。そうすれば、五、六世紀の頃この地方は、一つの政治上の中心地であったと考えることもできよう。

 五、六世紀といえば、大和朝廷の勢力が南九州までのびてきていた頃である。その頃氷川流域が、大和朝廷の勢力の根拠地になっていたのではないか。そういう時に、そこが火の村と呼ばれていたとすれば、そこから火の国の名が起きても不思議ではない。

 一つの村が、その地方の中心になると、その村の名が地方の名へ、さらに国の名になることはよくあることである。だから、はじめ火の国と呼んだときその範囲は小さかった。それが次第に大きな範囲に広げられ、ついには佐賀、長崎といった地方まで火の国の中に含まれるようになったと言う訳である。』

 『このような国名に起源について、火(肥)国の中心地とされる、熊本県八代郡宮原町史では、国名の起源は、阿蘇山の火のことでもなく、不知火の火のことでもない。
 「火ノ川」は後世になって斐伊川(ひいかわ)と呼ばれ、さらに近代に入り氷川となったが、氷川を火ノ川と呼んでいたころ、立神峡付近から宮原一帯の集落を既に、火ノ川の畔の「火ノ村」と言っていた。従って火ノ川の流れる、立神から宮原一帯の「火ノ村」こそが火国の名の源初だと考えるべきである。』 
 『また氷川の川筋には、良質の燧石(ひうちいし)が産出し、かつてこの燧石を海路を使って各地に売りさばき、近世、長崎一犬の狂歌に、『ひのもとの ひごのひ川の ひうち石』と歌われる程氷川町の燧石は有名であった。そのため、火国の由来を燧石に求める説もある。』 以上、地元町史からの引用。

 なお、宮原の地名は1162年に平盛俊が、火ノ村に三宮社を勧請、創建された宮居にちなんで、火ノ村を「宮ノ原」(ミヤノハル)と称するようになった。

          

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               氷川(立神峡)